Home / 恋愛 / Iの藍色或は愛に纏わる譚 / ー序章ー 2.巣立ち

Share

ー序章ー 2.巣立ち

Author: 土浦タカ
last update publish date: 2026-07-25 10:29:36

「イレヱヌ様、朝ですよ」

 最大の苦痛が今日も容赦無く襲いかかる。使用人のスーザンが今日もイレヱヌを起こしにやって来た。扉のノックをした後スーザンは無遠慮な足取りでのっしのっしと象の如く足音を立てながら部屋に入ってくる。イレヱヌにとっての苦痛の一つだ。イレヱヌを苛立たせて怒らせる為に態とやっている、イレヱヌはそう感じ取った。「さあさあ、早く仕度をしてくださいまし。朝は忙しいのですからね」

 そういって寝台ベッド卓子テェブルの上に水の入った手洗、柘榴と檸檬、蜂蜜の入った薔薇水ロオズウォオタァ、猪毛で出来たブラシ等を並べていく。

 鈍鈍のろのろとした動きで顔を水で濡らし、橄欖油オリィブオイルの使われたマルセイユ石鹸シャボンデマルセイユで顔を洗うと、ジャガアド織りのタオルで顔を拭きサンタ・マリア・ノヴェッラの薔薇水ロオズウォオタァとアルガン油で保湿をする。その次に、スーザンはブラシでイレヱヌの髪を解かしていった。総てが終わるとイレヱヌは血の気の無い大理石の様な顔に赤みがほんのりと差して薔薇色の頬になり、うねりのある髪は艶のある金糸になった。憂鬱な気分は朝食を食べる気力さえ奪っていく。鈍鈍と椅子に座ると肉匙フォオクで白トリュフのスクランブルエッグを掬った。牛酪バタァの濃厚な薫りが鼻を擽る。其のまま唇に運ばず持て余す。

 (食べたくない)

 堪らない憂鬱がイレヱヌを襲った。ぐにゃり、と身体を柳の枝の如くしならせる。イレヱヌは学校という牢獄に行かなければならない。

「イレヱヌ様、早く朝食を済ませてくださいまし。急がなければ遅刻をしてしまいますよ。」

 スーザンのキンキンとした声がイレヱヌの鼓膜を刺してくる。食堂ダイニングにはイレヱヌのみのため、当然ながら他の声は聞こえない。ジャンヌの「I」と柔らかく触れてくる甘い声は聞こえてこなかった。鈍鈍のろのろと喉の奥まで流し込むが好物のスクランブルエッグがまるで泥の様に感じた。食事は結局金糸雀カナリアが啄む程度口にして終わらせた。イレヱヌはジャンヌがエドワアドと結婚して新居に引っ越してからはずっと憂鬱を味わった。

 何しろイレヱヌは亜米利加に住んでいながら亜米利加という国を蔑んでおり、メンタリティは完全に仏蘭西人其の物だった。亜米利加は欧羅巴ヨオロッパ人からすれば成金の無教養な田舎者達の集まりという印象であるように、イレヱヌも同様の考えだった。おまけにこの使用人のスーザンは生まれも育ちも南部という亜米利加人から見ても正真正銘の“粗野で無教養な信仰心のみの田舎者”というイレヱヌからすれば最悪の人物だった。夫との結婚でニューヨークに移り住み、夫の戦死を機にエドワアドの邸宅で仕事をすることになった彼女をイレヱヌは心から蔑んでいる。スーザンが嫌いな理由は其れだけでは無い。スーザンはイレヱヌの世話係として身の回りの世話をするというよりも最早監視、監禁に近い扱いをするからだ。少なくともイレヱヌにはそうとしか感じられない。ジャンヌによく連れていってもらったメトロポリタン美術館やセントラルパークに行くことや、レキシントン・キャンディ・ショップでミルクシェイクやコカ・コーラを飲む事等を一切許されなかった。この家での生活に堪えきれずに自室の窓から窓帷カアテンにしがみついて一階まで飛び降りようとした時に不運にもスーザンに見つかってしまったのだ。お陰でその日は夕食抜きの上に自室に監禁という折檻を受けることになった。叉、スーザンも彼女の眼差しや声色から滲み出た蔑みを感じ取った。

 (何て憎らしい母子なんだろう)心中でスーザンは吐き捨てる。南部の信仰心の厚いカトリックの家庭で育てられたスーザンからすれば、映画など不良の観るもの、役者とは不品行な人間という認識だった。其の不品行な役者の中でも破廉恥の極みのような女と其の女と瓜二つの娘が何の落ち度も無い前妻を追い出して我が物顔で居座り、おまけに家ではろくに英語を話さず訳の分からない仏蘭西語を使っていた。スーザンは毎日こうした苛立ちをイレヱヌにぶつけずにはいられなかった。スーザンの憎しみの理由をイレヱヌは無論知らないものの、この粗野で無教養な田舎者はどうやら自分の敵である、ということは理解わかっていた。そして敵は残念ながら、家よりも此れから向かう小学校に無数に居た。

「アイリインが居る」「アイリインが来た」

 ニヤニヤ、ヘラヘラ、クスクスという嗤い声がイレヱヌの全身にタールの如くへばり付いてくる。今日も最悪な一日が始まった、とイレヱヌは思った。(あんた達なんか)心の中でイレヱヌは呟いた。態々口にすることはしなかった。その気力も湧かないからだ。小学校に通い始めたらイレヱヌの英語は上達し、友達も作ることが出来るだろうとエドワアドは期待をしていたが、其の期待は大いに裏切る惨状だった。小学校はイレヱヌにとって苦痛を強いられる地獄其の物だった。先ず入学初日から仏蘭西訛りのある英語をからかわれて残酷な物真似をする者達が現れた。そしてイレヱヌの名前は英語読みのアイリインと読む者しか居なかった。憤慨し、訂正させようとすると更に面白がり連呼してくるという地獄其の物だった。国語の音読でイレヱヌが仏蘭西語訛りで音読し始めるとクラスメイト達は一斉に教科書で顔を伏せてくすくすと嗤いだした。自分も母も祖国も侮辱された気分だった。(皆みんな、死んでしまえ)子供心に殺意を感じる連中達だった。地獄の時間を堪え忍ぶ為に、今日は学校にVogueを持ってきた。ジャンヌのインタビュウ記事が掲載されているからだ。此れを読めば時間を遣り過ごすことは出来る。そう考えていた。突っ伏して母に関する記事の頁ペエジを読んでいると、唐突に後ろから雑誌を奪われる。驚いて振り返ると

「何読んでるの?アイリイン」くすくすと女の卑しさの滲み出た嗤い声に取り囲まれる。

 クラスメイトのカレン・サリバン、ティファニイ・グレイ、ジュリア・スミス達だった。

 何れもイレヱヌの大嫌いな連中だったし、敵もイレヱヌの事を嫌っていた。嫌いならば関わらなければ良い筈なのに、何故か三人は態々関わり攻撃をしてくるという不愉快な連中だった。

 (C'estセ dégueulasseデギュラス)

最悪だ、と心の中で呟く。勿論口にはしない。目の前の連中が仏蘭西フランス語を理解出来ないだけでなくエドワアドから悪いお言葉を口にしては駄目だぞ、と日頃から言われているからだ。

「返して」相手にしたくも無いので言葉少なく伝える。どうやら其の態度は癪に障るものだったらしい。

「何であんたの言うことなんか聞かないといけないの?」

 カレンが口許に嗤いを浮かべた侭、答えた。こいつらは何時も人を不快にさせることに情熱を燃やしていた。カレンはイレヱヌがカレンの事を嫌っていることと同じくらいイレヱヌが嫌いだった。射干玉ぬばたまの黒髪と猫を思わせる翠眼のカレンは昔から周りに美しいと褒めそやされてきた。人によってはまるでヴィヴィアン・リーの様な美少女だと褒めちぎった。自分は誰より美しいのだと信じ込み、将来は必ず世界的な女優になるというカレンの大望は小学校に入ってイレヱヌの存在を知った瞬間に粉々に砕かれる。イレヱヌは明らかに誰よりも美しかった。豊かな巻き毛の金髪、耀の加減によって紫にも藍色インディゴにも見える不思議な碧眼、薔薇色の頬、真珠のような白い歯に、白百合を思わせるしなやかな手。総て自分には無いものをイレヱヌは持ち合わせていた。おまけに父親は映画会社の社長で母親は女優。母親とは雑誌に載る事もあったと聞いた。そして、何より気に食わなかったのが、イレヱヌが明らかに此方の存在等全く以て気にしていないという点だった。自分は美しい。其の自分をあの仏蘭西人はまるで歯牙にもかけないなんて!自分の存在を何もかも霞ませて矮小なものに錯覚させる此の異物がカレンにとっては死ぬほど不快だった。

「返して欲しいなら自分で取ってみれば?」嗤って言うと雑誌を持った手を窗から出して掌を開いた。あっと思う暇もなく、雑誌は落下して無惨に地面に叩き付けられた。言葉に成らない悲鳴を上げるイレヱヌの耳にくすくすと嗤い声がへばりついた。雑誌だけでなく、イレヱヌ自身も地面に叩き付けられた気分だった。嗤い声を背に教室を駆け出すと外に出て雑誌を拾い上げる。雑誌は案の定土だらけ泥だらけの姿になり、ジャンヌの写真の載っている頁は醜く汚れていた。鼻の奥にツンと鋭い痛みが走り、眼球が焼ける様に熱くなる。食い縛った口からは言葉に成らない嗚咽が漏れ出た。自分が世界一惨めでみっともない存在に成り果てた気分だった。

イレヱヌは誰にも此の事を言わなかったが、働き始めたばかりの使用人アンリエッタはイレヱヌの異変に直ぐに気付いた。仏蘭西人の若く美しいアンリエッタの事がイレヱヌは好きだった。アンリエッタは丸い額に伏せ眼がちの常に微笑みを口許に浮かべたリッピの聖母を思わせる優美な若い女性で、イレヱヌはアンリエッタの事を好いていた。

「イレヱヌ様、元気が有りませんね。学校で何か有りましたか?」

 アンリエッタは屈んでイレヱヌに視線を合わせながら微笑みかける。イレヱヌは首を振った。今日の事を万一母が知ればきっと哀しませてしまう。子供ながらにそのことを良く理解していたからだ。

「そうですか。其れは失礼いたしました」

 イレヱヌを安心させる微笑わらいを浮かべてアンリエッタは去っていったのでイレヱヌはほっと息を吐いた。にもかかわらず、此の事件はその日の内にエドワアドとジャンヌの知るところになる。アンリエッタはイレヱヌがベッドの下に隠した無惨に変わり果てた雑誌を見つけたからだ。エドワアドは其の日は珍しく早めに帰宅をしてイレヱヌと夕食を共にした。

 「大丈夫だイレヱヌ。パパに任せておきなさい」とだけイレヱヌに云うと次の日に学校へ猛抗議をして学校へ大金を寄付したことで今回の事件の主犯格カレン、ティファニイ、ジュリアは転校をさせられた。ジャンヌは此の事件に酷く動揺ショックを受け、号泣してとても仕事どころでは無くなり、その日入っていた映画の撮影は急遽取り止めになった。そしてジャンヌは此の事件を機に少しずつ映画の仕事を減らしていった。イレヱヌはジャンヌが何れだけ女優の仕事を楽しんでいるのか知っているため申し訳無く思ったが、ジャンヌは

「映画はママンが居なくても作れるけど、Iのママンはあたしだけだもの」とからっと笑ってみせた。イレヱヌは心からほっとした。イレヱヌは勿論母の愛情を疑ったことなど一度もないが、母が何れだけ仕事を愛しているかも良く知っている。「ママンは映画のお仕事を本当はもっとやりたいかもしれない」イレヱヌは其れが何よりも心配だった。ジャンヌは何時までも大人にも母親にも成りきれない子供のような女だったが、娘に対する愛情の大きさだけならば恐らくエジソンの奇行を受け止め、支え続け味方となった母ナンシーに勝るとも劣らないものだった。

 イレヱヌの人生最悪の出来事となったものの、幾つか明るい側面もあった。その後、アンリエッタはスーザンに代わってイレヱヌの世話係に就任した。若さと働き始めということで未だ早いだろうと思われて居たものの、アンリエッタが思いの外気が利く女であったこと、イレヱヌも幾分か心を開いているらしいことにエドワアドが気付いたのだ。

 イレヱヌが、家の外観や、庭が殺風景でどうしても馴染めない事を朝の身支度の際に溢したら、少しずつ庭に薔薇や百合、蘭、紫丁香花ライラック、躑躅、矢車菊等が植えられていった。学校の無い日には時々花をゆっくりと眺められるように庭で朝食を摂らせて貰えた。

 また、学校は行かなければいけないことは分かっているけれどどうしてもつまらないという話から、前々からバレエに興味があることを話したところ、バレエ教室に通わせて貰えるようになった。最初は正しい姿勢を定着させることも難しかったが、少しずつ上達していくことが楽しかった。

 バレエの発表会には仕事の合間を縫って二人揃って観覧に来てくれる事が嬉しかったため、練習は家でも欠かさず行いお陰で先生にもよく褒められた。練習に熱中しているとトウシューズは直ぐに履き潰してしまうことに驚いた。稽古や自主練習を口実にパーティーに参加しなくて良くなるのは嬉しい誤算だった。

 バレエを少しずつ上達する内にご褒美を何か買ってあげようとエドワアドが提案してくれたため、猫をおねだりした。イレヱヌが選んだのはトルコのアンカラ猫タァキッシュ・アンゴラという種類の猫で、イレヱヌは|可愛い子《ルル》という名前を付けた。ルルは真っ白な毛皮に空色の左目、向日葵色の右目をしたバレリィナのようにしなやかな肢体の猫だった。食事を摂るときはルルは同じ卓子テェブルで摂り、イレヱヌの食事には興味も示さない。アンリエッタが床で食べさせようと試みたが結局徒労に終わった。どうやら床はお気に召さないらしい。更にルル専用のベッドを用意したものの、毎晩イレヱヌと一緒のベッドに潜り込んできた。まるで人間のような猫だった。イレヱヌはルルを抱き締めたり、駝鳥の羽根を猫じゃらし代わりにして遊んでいた。若しルルが人間ならきっと自分そっくりの女の子だろう、銀食器で食事をするルルを眺めながらイレヱヌは夢想した。

 カレン達の処遇が決まると、クラスメイト達は今までのようにイレヱヌを嗤う事は無くなった。どうやら家で両親にこっぴどく叱られたらしい。此れまでと打って変わって次第に媚を売り始める者も居た。イレヱヌはそういった蝙蝠のような輩を蔑んでいたため、なるべく関わるまいとしていた。然し大抵の者は自分を避けるようになったため、学校は此れまでほどの苦痛の連続では無くなった。学校では授業以外は気儘に絵を描いたり詩ポエムを綴ったり、小説や雑誌を読む事がイレヱヌの御決まりの過ごし方になった。絵はミュシャやロォトレックの画風を真似たもので、雑誌の御気に入りのモデルや女優、叉はルルを描くのが堪らなく楽しかった。

ルルを描く時には詩ポエムを綴る事も多かった。

おお ルルよ 我が腹心の友よ

蒼玉サファイアと琥珀を嵌め込まれた貴婦人

毛皮を纏うバレリィナ

我が家に舞い降りし雪の妖精

この野卑な世界を照らし出す目映い天使

どうかこの野卑で醜い襤褸巾で出来た凡庸な衆愚達をその宝石の双眸に写すこと無く

此の世に居ると知ることも無いままに

愛を信じて疑わぬ愛し子よ

何時までも幸あれ

何時までも幸あれ

 万一周りが仏蘭西語を解する事が出来れば、偏狭な思い上がりの言葉の数々に茹でられたオマアル海老の如く赤くなるだろうが、幸い其のようなことは一度も無かった。詩ポエムは特別勉強したことが有るわけでもないので拙い内容であることは承知していたが絵と詩ポエムを綴る事は何より楽しかったので辞めることは無かった。

 小説で特に気に入ったのがフランソワアズ・サガンの「Bonjour悲しみよTristesseこんにちは」だった。イレヱヌは主人公のセシルの気持ちに共感をしながら読み進めていった。イレヱヌも自由で怠惰なジャンヌとの日常を愛し、其れを壊された者というセシルとの共通点が有るからだ。但し、勿論何もかも同じという訳ではない。イレヱヌにとってエドワアドは怠惰で享楽的な日常を奪った張本人では有るが、イレヱヌはセシルのように大それた画策を思い付き、実行に移すことはしない。エドワアドはイレヱヌなどが何か悪企みをしたところで其れを直ぐに見抜くし、万一罠に嵌まったところで決定的に傷付く事など有り得ない。例の事件の件でエドワアドが何れだけ力を持った強い大人なのか良く解った。小説でセシルはアンヌを傷付けたことを深く悔いているが、自分が誰かに同じことをしたところで後悔をすることなど無いだろう、と確信をした。

「イレヱヌ、来年からは欧羅巴ヨオロッパの学校へ通わないか?」

 芳醇な牛酪バタァ、濃厚なソオスの薫りが漂うピィタア・ルウガア・ステエキハウスでディナーをしながらエドワアドが話を切り出した。

 エドワアドが勧めたのは世界中の世界中の王侯貴族や資産家、セレブリティの子弟・子女が多く通うと言われている瑞西スイスに旧くから存在する中高一貫のサン=ポウル学院という寄宿学校ボウディングスクールだった。

「此処は仏蘭西語も公用語だし、きっとイレヱヌも過ごしやすいんじゃないかとパパは思ってね」

 勿論此れは理由の一つだが、其れ以上にエドワアドは資産狙いの妙な虫に娘が目を付けられないため、仕事のためのコネクション作りという理由が有る。エドワアドにとってジャンヌと再婚する決め手の一つはイレヱヌの存在だ。(何て綺麗な娘なんだろう)初めて対面した時にエドワアドは実の娘の余りの美しさに驚いた。

 (ジャンヌの瓜二つ……いや、ジャンヌが子供の時であろうと此れ程美しかったかどうかは疑わしい。髪も眼もジャンヌにそっくりだが…何処かジャンヌとは違う。ジャンヌは何時までもまるで無邪気な子供のような女だというのにこの子は少し違う。其のせいだろうか?不思議なものだ。決して私に似ているわけでも無いのに)

 娘の美貌ならば、世界的な名家、資産家と親類になることも十分に見込めると一目で確信を持てた。イレヱヌがエドワアドの愛を疑ってはいないものの、ジャンヌと同じくらい好く事が出来ないのは自分の父親のこういった顔を本能的に感じていたからだろう。只お陰でイレヱヌは亜米利加を離れる事が出来る。美しいものが日常では見付ける事が困難な、粗野な田舎者達の集まりの国からようやっと離れる事が出来た。おまけに此の学校は本人が希望すれば、自分の部屋にペットを連れて行くことも出来た。ルルと離れること無く野暮ったい野卑な亜米利加を離れる事が出来る。イレヱヌはエドワアドの提案に頷いた。「行きたい」イレヱヌはエドワアドの目を真っ直ぐ見てきっぱりと返事をした。父のこの決断に心から感謝した。

 (ようやっと自分の居場所に巡り会えるかもしれない)一抹の期待と不安が胸の内で少しずつ膨らんでいくのを感じた。

 そして、其処でイレヱヌはセシル・マグワイア、シリル・ベネディクトと会う事になる。

――序章 完――

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • Iの藍色或は愛に纏わる譚   ー第5章ー 3.イヴ・サンローラン

    「イレヱヌ、僕卒業したら赤い風車で働く事になったよ!」セシルから驚きの報告があった。 「本当に!?」イレヱヌは驚嘆する。母が嘗て花形スターとして活躍した赤い風車の舞台に今度はセシルも立つなんて!こんな事が起こるとはイレヱヌは想像もしてはいなかった。 「凄い…」ようやっと其れだけを言った。 「イレヱヌはきっと驚いてくれると思った」セシルがにっこりと笑う。 「イレヱヌのママも赤い風車で働いていたんだよね?僕運命を感じちゃったよ。何だか凄く浪漫チックじゃない?」「確かに…」 そうだ、こんな事が起こるだなんてイレヱヌは想像すらしたことは無かった。自分がモデルになった事と言い、人生とは全く何が起きるか分からない。 「ねえイレヱヌ、イヴが新しくブランドを設立するのは知ってる?」 サンローランの友人の一人であるサガンから電話越しに驚きの情報がもたらされる。サンローランが軍隊の生活が原因で入院し、その後過酷な治療が原因で完全に憔悴しきっている事だけ聞いていたため、寝耳に水の情報だった。この世界に入った時、サンローランのデザインした服でウォーキングをするのはイレヱヌの夢の一つだった。そのチャンスが今、訪れた。イレヱヌの細胞一つ一つが熱を帯び、震えるのを感じた。 (他のモデルと同じことをしては、絶対にサンローランの眼には留まらない)イレヱヌはそう確信し、フリルブラウスに黒のハーフパンツ、と黒いジャケットを着た。白い靴下は牛革の靴下留めで固定する。セシルの制服姿から着想を得たものだ。自分の脚をいちばん長く見せられる、ウエストを細く見せられるバランスを探っていく。モード界で次々と革命を起こした天才イヴ・サンローランと会うのだ。彼と仕事をする事を望むモデルなどすぐに見つかるだろう。サンローランを惹き付けられる姿で彼と会わなければ、と気合いが入った。 セシルはブスッとした顔で其れを見詰め「何だかサンローランに恋してるみたいだね……」とぼやいた。 セシルは色んな人と恋をしてきたから気になるのかもしれないが、イレヱヌは勿論そんなつもりは全く無い。セシルの焼きもちは最早病気だ、と思った。髪はポマアドで一筋の乱れもないように固め、後ろで低くポニーテールにして纏める。なるべく中性

  • Iの藍色或は愛に纏わる譚   ー第5章ー 2.Mille tendresses

     “ティファニーで朝食を”がサン=ポウル学院の映画館でも上映される。公開されるとセシルと二人で観に行った。仏蘭西と同じく一九六一年十二月六日だった。 「まあ、悪くは無かったとは思う」イレヱヌはカフェで一言感想を言った。「でもあれはもう、カポーティの描いた作品では無かったよ」セシルが不服そうに口を尖らせる。「どうして結末をあんなに変えたんだろう?」憮然とした表情のままぼやいた。 「パパが言ってたけど、映画は制作するのに膨大な時間とお金が掛かりすぎるから、其れを回収しようと思ったら、かなり大衆寄りな内容にする時もあるんだって」「原作のままだと賛否両論ありそうだから、夢のある結末に変えたんじゃない?」とイレヱヌが考えを述べると 「あれじゃカポーティの小説を原作にした意味が無いよ。ただの薄っぺらい恋愛映画!あの苦い結末が物語に深みを与えてるのに!」セシルは天を仰いで大声で嘆き、 「そもそもどうしてホリーはマリリンが演じられなかったんだろう……」と溢す。 「マリリンは業界では無責任な女優って評判らしいから、|危険性《リスク》が有りすぎると思われたかもって聞いたわよ」「遅刻癖が酷いし台詞も全然憶えてこない役者は制作会社が絶対に嫌がるって」 「カポーティはマリリンを熱望していたのにね…」セシルはガッカリとした様子でポツリと呟いた後に「ま、あの映画のお陰でティファニーは随分と売り上げが上がるだろうね」皮肉を込めてそう評した。間を置くと「ところでイレヱヌ」セシルは妖しい笑みを浮かべてイレヱヌの頬に手を沿わせる。 「僕らも今日は“善きこと”に没頭すべきじゃない?一晩中」 “ティファニーで朝食を”のホリーの台詞の引用だ。言葉の意味とセシルの表情で何を指しているのかが理解り、卓子の下でセシルの脛を爪先で軽く蹴った。 「そんな事、外で言うもんじゃ無いわ」と嗜めながら珈琲を一口飲んだ。 「どうして?ホリーも言ってたじゃない?『あなたが善きことをしているときだけ、善きことが起こる』『不正直な心を持つくらいなら、癌を抱え込んだほうがまし。癌はあなたを殺すかもしれないけど、もう一方のやつはあなたを間違いなく殺す』って」 イレヱヌは呆れ、思わず「その正直に生きた原作のホリーの末路はどんなものだったの?」と訊いてしまう。 「原作のよ

  • Iの藍色或は愛に纏わる譚   ー第5章ー 1.1961年パリ虐殺事件

     一九六一年秋イレヱヌ達は高等部の三年に上がっていた。来年の八月にはサン=ポウルを卒業する。楽しみなような、ほんの少し寂しさが入り交じったような複雑な思いだった。その頃にはイレヱヌ、セシルも仕事に慣れてきた。セシルはもう少し実力をつけてから本格的なオーディションを受けるのだと胸を張っていた。「詳しいことは何れ教えるよ」セシルが目を輝かせて夢を語るのを見るのがイレヱヌは大好きだった。 イレヱヌはシャンゼリゼ通りを歩いている。ラデュレのマカロンを買うためだ。アンヌとジュリエットが此方のマカロンが大好きだと云っていたため、お土産に買ってあげたかった。店内に入ると、甘い馨りが広がっていた。イレヱヌは多幸感に包まれ、すう、と息を吸い込んだ。(ジュリエットはショコラが特に好きって言ってた、アンヌはピスタチオだったっけ……。そうだ、セシルにも買ってあげなくちゃ)その他にも、紅茶を買い意気揚々として外へ出る。 暫く歩くと人だかりが列を成して歩いている。黒髪にうっすらと褐色の肌の色をしている。アルジェリア人達だった。イレヱヌは思わずびくりと反応してしまう。アルジェリア人は住環境整備が整わないまま仏蘭西に来たため、治安の悪いスラム街に住んでいるらしいとテレビのニュウスや街の噂などでイレヱヌも知っていた。思わず身構えてしまったが、彼らは武器の様なものは持たず、女性や子供も何人もいるため、平和なデモ隊であることが直ぐに理解った。周りには不安そうな眼で見ている人も多い。しかし彼らを責めることは出来ない。イレヱヌだって、眼にしただけで不安になってしまったのだ。(何に対するデモなんだろう?)周りに危害を加えないことを確認すると、其れ以上の興味も無かったため素通りする。そのままルイヴィトンでキャリイケエスを購入し、ブラッスリー・フーケでカプチーノを飲んで一休みをした後にアパルトマンに戻った。 すっかり日も落ちた頃、アパルトマンへ帰る途中にパトロオルカーの警報音が聞こえた。何か事件でも起きたかな、また独立反対派のテロだろうか、などと不穏な想像をしながらアパルトマンに帰ると、大家が血相を変えて駆け寄ってきた。「ああイレヱヌ、無事だったのね。良かったわ」「えっどうしちゃったの|女将《マダム》」驚きながら尋ねると「巴里の彼方此方でアル

  • Iの藍色或は愛に纏わる譚   閑話

     仕事は順調だった。しかし予期しない出来事は起こってしまうらしい。「ねえ、イレヱヌ。僕ら、付き合って其れなりにたつよね?」珍しく真剣なセシルの様子にやや気圧されながらも、「そうね、其れなりに…」と同意する。「イレヱヌ、僕達、今後も付き合い続けるにあたって長続きするための努力はすべきだと思うんだ」「うん」「だから……僕、どうしても知って欲しい事があって……」セシルは俯きながら言葉を絞り出す。どくり、と心臓が嫌な鼓動をたてる。まさか、セシルは何か危険にさらされているのだろうか、其れとも前に話してくれたよりも辛い過去を隠して一人で背負い込んでいたのだろうか。嫌な予感が頭の中を駆け巡る。どっちでも構わない、とイレヱヌは腹を括る。(例えどんな辛いものを背負っていたとしても、あたしは必ず受け止める)そう自分に言い聞かせた。  そして現在、イレヱヌとセシルは寝室のキングサイズの寝台の上で向かい合っていた。イレヱヌの眼前には露西亜帝国の女帝エカテリイナ二世の家具や食器コレクションもかくやという珍妙なおぞましい物体が幾つも並んでいた。「何……これ……」思わず呆然としてイレヱヌは呟く。「ラブトイだよ?知らない?」セシルは平然と答える。「存在は……一応知ってる……」ようやっと言葉を絞り出す。そうだ、存在くらいは知っている。イレヱヌは其処まで無知でも無垢でもない。聞きたいのは其処ではない「何でこんなもの…持ってるの…?」ようやっと疑問を口にすると、「何れイレヱヌと使いたかったし」とセシルは当然の如く答えた。イレヱヌは眩暈を覚えながら「…あたしに使いたいの…?」と何とか訊くと「ううん、僕に使ってほしい」とセシルはあっけらかんと答える。呆然としているイレヱヌに構わずセシルは大体の用途を説明した。最早言葉も無かった。イレヱヌはやっとのことで「セシル、そこは出すところであって入れる場所じゃないわ」と云った。「そうかもしれないけど、でも僕は入れるところとしても使うんだよ、イレヱヌ」セシルは必死でイレヱヌに説明する。 「肛門や括約筋がおかしくなったらどうするの?」「そんなこと起こったこと無いよ…。ねえ、イレヱヌ。此れからの僕達の甘い甘い時間にもっと思いを馳せてくれない?」セシルが両手でイレヱヌの手を取り精一杯甘えるが、イレヱヌはそんな言葉に構わず「おむつ生活を送るつもり?セシ

  • Iの藍色或は愛に纏わる譚   ー第4章ー 5.RUNWAY

    九月六日、ニュウスを見ていると仏蘭西に関する話題が出た。“アルジェリア戦争における不服従の権利に関する宣言”と題する左派知識人通称“百二十一人宣言”が発表されたらしい。これは「アルジェリア戦争を合法的な独立闘争であると認め、仏蘭西軍が行っている拷問を非難し、仏蘭西人の良心的兵役拒否者を政府が尊重することを呼び掛ける公開状」だった。知識人の中にはサガンの名前もある。サガンは世間からは眉をひそめられる軽薄な|私生活《プライベエト》のイメエジが強いが、実際にサガンに会ったイレヱヌはそうは思わなかった。 (フランソワーズはやはり正義と人間の尊厳について真っ当な考えの持ち主だ)イレヱヌはこの件で確信を持つことができた。 (仏蘭西が間違った方へ向かったとしても、闘う勇気を持てる人はまだ存在する)その事実にイレヱヌは救われる思いだった。 九月下旬からブランドの発表コレクションが次々開催された。 舞台裏で二十人ほどのモデル達が待機する。ピンと空気が張り詰めていた。デザイナアはモデル達を四方から眺めて最終確認をしながらモデルの襟やリボン、ネクタイ等を一番美しく見せられるようにと最終調節を行っている。 イレヱヌはベビイブルウのローウエストワンピを身に纏っていた。髪はカーラーでしっかりと巻かれた後にビーハイブヘア風のシニヨンにして、毛先と後れ毛を遊ばせる。デザイナアの鋭い視線で見詰められながら裾の調節をされ、まるで美術品にでもなった気分だった。はあ、と思わず息を漏らし、自分が緊張している事に気が付く。此れ程緊張したことは無い。バレエの発表会や大人だらけのパーティーに参加した時も、セシルと初めて身体を繋げた時も此のような緊張は無かった。 前のモデルが歩きだし、イレヱヌも続いて幕をくぐった。暗い空間の中、正面に白く輝く一筋のランウェイが続いている。流星の軌道のようだ。カツカツと歩いていき、先端でポウジング。一斉にカメラのフラッシュがたかれる。目が眩みそうなほどの強い耀はまるで閃光のようだった。 全身が身震いしてしまいそうだ。何と云う快感なのだろう。ぞくぞくと寒気の様な、其れなのに熱を帯びた様な衝撃が電流の如く脊髄を走って全身に流れ込んだ。 (さあ、ご覧なさい。よく眼に焼き付けなさい。あたしはこんなに美しいのよ。あたしはこの

  • Iの藍色或は愛に纏わる譚   ー第4章ー 4.花の都巴里

    イレヱヌはカジノに戻った。セシルは完全に酔っぱらい、緩んだ顔で笑っている。シャンパンを大量に呑んだらしい。サガンの前には大量のチップが置かれていることを見ると、今回は大勝ちしたようだ。喧騒と熱狂にフロア全体が包まれている。 (あたしは、間違ってはいない)自分は何れ変わってしまうという可能性が堪らなく怖かった。(とりあえずあの事だけはセシルには隠しておこう。また関係が拗れたら困る)セシルの性格からしてあの事を知ってしまったらまた一悶着起こるのでは、と嫌な予感がしたからだ。 翌日、イレヱヌ達は海に向かった。太陽の陽を照らし返す真っ白い砂浜と潮の香りが胸を浮き立たせる。イレヱヌはストラップレスの白いビキニを着た。マリリン・モンローやブリジット・バルドーなどの銀幕での水着姿を観てから、必ずビキニを着たいと思っていたのだ。セシルは夏用のセーラーを着ていたが、「僕もビキニが着たかった…」と落ち込んでいた。流石に水着姿を着ることは出来なかったらしい。「あたし、男の子が女の子になれる手術があるって聞いたことあるよ?」とイレヱヌは冗談混じりに伝えると、「其れは知ってる。でも僕は女の子になりたい訳じゃないもん」と頬を膨らませる。くすくすと笑うイレヱヌに「ところで……僕が女の子になったら、イレヱヌも物足りなくなっちゃうんじゃない?色々と」指先でイレエヌの植物の茎の様な腕をなぞる。イレエヌはセシルに水をかけた。「もー!やったね!」セシルは悲鳴をあげてやり返す。黄色い声をあげてじゃれ合う二人の姿を見て、サガンは口を開けて笑い声を上げた。 はしゃぎ疲れた三人は近くのレストランで遅めの昼食を摂った。林檎酒、ムウル貝の林檎酒蒸し、生牡蠣といったメニュウだった。ムウル貝の潮の薫りと林檎酒の爽やかで甘い林檎の薫りが鼻を擽る。セシルとサガンはノルマンディーの名物グルメに舌鼓をうったが、イレヱヌは量を控えた。この長期休暇の間にモデルのオーディションが控えている。 翌朝、イレヱヌはセシルと巴里に戻った。イレエヌが九月下旬~十月上旬に開催されるブランドの発表コレクションのオーディションを受けるからだ。 「セシルはもう少しのんびりしてても良いのよ?」と言ったが、「イレヱヌと二人きりになる時間が無かったんだもん」とにっこりとセシルは笑

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status