ログイン「イレヱヌ様、朝ですよ」
最大の苦痛が今日も容赦無く襲いかかる。使用人のスーザンが今日もイレヱヌを起こしにやって来た。扉のノックをした後スーザンは無遠慮な足取りでのっしのっしと象の如く足音を立てながら部屋に入ってくる。イレヱヌにとっての苦痛の一つだ。イレヱヌを苛立たせて怒らせる為に態とやっている、イレヱヌはそう感じ取った。「さあさあ、早く仕度をしてくださいまし。朝は忙しいのですからね」
そういって
(食べたくない)
堪らない憂鬱がイレヱヌを襲った。ぐにゃり、と身体を柳の枝の如くしならせる。イレヱヌは学校という牢獄に行かなければならない。
「イレヱヌ様、早く朝食を済ませてくださいまし。急がなければ遅刻をしてしまいますよ。」
スーザンのキンキンとした声がイレヱヌの鼓膜を刺してくる。
何しろイレヱヌは亜米利加に住んでいながら亜米利加という国を蔑んでおり、メンタリティは完全に仏蘭西人其の物だった。亜米利加は
(何て憎らしい母子なんだろう)心中でスーザンは吐き捨てる。南部の信仰心の厚いカトリックの家庭で育てられたスーザンからすれば、映画など不良の観るもの、役者とは不品行な人間という認識だった。其の不品行な役者の中でも破廉恥の極みのような女と其の女と瓜二つの娘が何の落ち度も無い前妻を追い出して我が物顔で居座り、おまけに家ではろくに英語を話さず訳の分からない仏蘭西語を使っていた。スーザンは毎日こうした苛立ちをイレヱヌにぶつけずにはいられなかった。スーザンの憎しみの理由をイレヱヌは無論知らないものの、この粗野で無教養な田舎者はどうやら自分の敵である、ということは
「アイリインが居る」「アイリインが来た」
ニヤニヤ、ヘラヘラ、クスクスという嗤い声がイレヱヌの全身にタールの如くへばり付いてくる。今日も最悪な一日が始まった、とイレヱヌは思った。(あんた達なんか)心の中でイレヱヌは呟いた。態々口にすることはしなかった。その気力も湧かないからだ。小学校に通い始めたらイレヱヌの英語は上達し、友達も作ることが出来るだろうとエドワアドは期待をしていたが、其の期待は大いに裏切る惨状だった。小学校はイレヱヌにとって苦痛を強いられる地獄其の物だった。先ず入学初日から仏蘭西訛りのある英語をからかわれて残酷な物真似をする者達が現れた。そしてイレヱヌの名前は英語読みのアイリインと読む者しか居なかった。憤慨し、訂正させようとすると更に面白がり連呼してくるという地獄其の物だった。国語の音読でイレヱヌが仏蘭西語訛りで音読し始めるとクラスメイト達は一斉に教科書で顔を伏せてくすくすと嗤いだした。自分も母も祖国も侮辱された気分だった。(皆みんな、死んでしまえ)子供心に殺意を感じる連中達だった。地獄の時間を堪え忍ぶ為に、今日は学校にVogueを持ってきた。ジャンヌのインタビュウ記事が掲載されているからだ。此れを読めば時間を遣り過ごすことは出来る。そう考えていた。突っ伏して母に関する記事の
「何読んでるの?アイリイン」くすくすと女の卑しさの滲み出た嗤い声に取り囲まれる。
クラスメイトのカレン・サリバン、ティファニイ・グレイ、ジュリア・スミス達だった。
何れもイレヱヌの大嫌いな連中だったし、敵もイレヱヌの事を嫌っていた。嫌いならば関わらなければ良い筈なのに、何故か三人は態々関わり攻撃をしてくるという不愉快な連中だった。
(
最悪だ、と心の中で呟く。勿論口にはしない。目の前の連中が
「返して」相手にしたくも無いので言葉少なく伝える。どうやら其の態度は癪に障るものだったらしい。
「何であんたの言うことなんか聞かないといけないの?」
カレンが口許に嗤いを浮かべた侭、答えた。こいつらは何時も人を不快にさせることに情熱を燃やしていた。カレンはイレヱヌがカレンの事を嫌っていることと同じくらいイレヱヌが嫌いだった。
「返して欲しいなら自分で取ってみれば?」嗤って言うと雑誌を持った手を窗から出して掌を開いた。あっと思う暇もなく、雑誌は落下して無惨に地面に叩き付けられた。言葉に成らない悲鳴を上げるイレヱヌの耳にくすくすと嗤い声がへばりついた。雑誌だけでなく、イレヱヌ自身も地面に叩き付けられた気分だった。嗤い声を背に教室を駆け出すと外に出て雑誌を拾い上げる。雑誌は案の定土だらけ泥だらけの姿になり、ジャンヌの写真の載っている頁は醜く汚れていた。鼻の奥にツンと鋭い痛みが走り、眼球が焼ける様に熱くなる。食い縛った口からは言葉に成らない嗚咽が漏れ出た。自分が世界一惨めでみっともない存在に成り果てた気分だった。
イレヱヌは誰にも此の事を言わなかったが、働き始めたばかりの使用人アンリエッタはイレヱヌの異変に直ぐに気付いた。仏蘭西人の若く美しいアンリエッタの事がイレヱヌは好きだった。アンリエッタは丸い額に伏せ眼がちの常に微笑みを口許に浮かべたリッピの聖母を思わせる優美な若い女性で、イレヱヌはアンリエッタの事を好いていた。
「イレヱヌ様、元気が有りませんね。学校で何か有りましたか?」
アンリエッタは屈んでイレヱヌに視線を合わせながら微笑みかける。イレヱヌは首を振った。今日の事を万一母が知ればきっと哀しませてしまう。子供ながらにそのことを良く理解していたからだ。
「そうですか。其れは失礼いたしました」
イレヱヌを安心させる
「大丈夫だイレヱヌ。パパに任せておきなさい」とだけイレヱヌに云うと次の日に学校へ猛抗議をして学校へ大金を寄付したことで今回の事件の主犯格カレン、ティファニイ、ジュリアは転校をさせられた。ジャンヌは此の事件に酷く
「映画はママンが居なくても作れるけど、Iのママンはあたしだけだもの」とからっと笑ってみせた。イレヱヌは心からほっとした。イレヱヌは勿論母の愛情を疑ったことなど一度もないが、母が何れだけ仕事を愛しているかも良く知っている。「ママンは映画のお仕事を本当はもっとやりたいかもしれない」イレヱヌは其れが何よりも心配だった。ジャンヌは何時までも大人にも母親にも成りきれない子供のような女だったが、娘に対する愛情の大きさだけならば恐らくエジソンの奇行を受け止め、支え続け味方となった母ナンシーに勝るとも劣らないものだった。
イレヱヌの人生最悪の出来事となったものの、幾つか明るい側面もあった。その後、アンリエッタはスーザンに代わってイレヱヌの世話係に就任した。若さと働き始めということで未だ早いだろうと思われて居たものの、アンリエッタが思いの外気が利く女であったこと、イレヱヌも幾分か心を開いているらしいことにエドワアドが気付いたのだ。
イレヱヌが、家の外観や、庭が殺風景でどうしても馴染めない事を朝の身支度の際に溢したら、少しずつ庭に薔薇や百合、蘭、
また、学校は行かなければいけないことは分かっているけれどどうしてもつまらないという話から、前々からバレエに興味があることを話したところ、バレエ教室に通わせて貰えるようになった。最初は正しい姿勢を定着させることも難しかったが、少しずつ上達していくことが楽しかった。
バレエの発表会には仕事の合間を縫って二人揃って観覧に来てくれる事が嬉しかったため、練習は家でも欠かさず行いお陰で先生にもよく褒められた。練習に熱中しているとトウシューズは直ぐに履き潰してしまうことに驚いた。稽古や自主練習を口実にパーティーに参加しなくて良くなるのは嬉しい誤算だった。
バレエを少しずつ上達する内にご褒美を何か買ってあげようとエドワアドが提案してくれたため、猫をおねだりした。イレヱヌが選んだのは
カレン達の処遇が決まると、クラスメイト達は今までのようにイレヱヌを嗤う事は無くなった。どうやら家で両親にこっぴどく叱られたらしい。此れまでと打って変わって次第に媚を売り始める者も居た。イレヱヌはそういった蝙蝠のような輩を蔑んでいたため、なるべく関わるまいとしていた。然し大抵の者は自分を避けるようになったため、学校は此れまでほどの苦痛の連続では無くなった。学校では授業以外は気儘に絵を描いたり
ルルを描く時には
おお ルルよ 我が腹心の友よ
毛皮を纏うバレリィナ
我が家に舞い降りし雪の妖精
この野卑な世界を照らし出す目映い天使
どうかこの野卑で醜い襤褸巾で出来た凡庸な衆愚達をその宝石の双眸に写すこと無く
此の世に居ると知ることも無いままに
愛を信じて疑わぬ愛し子よ
何時までも幸あれ
何時までも幸あれ
万一周りが仏蘭西語を解する事が出来れば、偏狭な思い上がりの言葉の数々に茹でられたオマアル海老の如く赤くなるだろうが、幸い其のようなことは一度も無かった。
小説で特に気に入ったのがフランソワアズ・サガンの「
「イレヱヌ、来年からは
芳醇な
エドワアドが勧めたのは世界中の世界中の王侯貴族や資産家、セレブリティの子弟・子女が多く通うと言われている
「此処は仏蘭西語も公用語だし、きっとイレヱヌも過ごしやすいんじゃないかとパパは思ってね」
勿論此れは理由の一つだが、其れ以上にエドワアドは資産狙いの妙な虫に娘が目を付けられないため、仕事のためのコネクション作りという理由が有る。エドワアドにとってジャンヌと再婚する決め手の一つはイレヱヌの存在だ。(何て綺麗な娘なんだろう)初めて対面した時にエドワアドは実の娘の余りの美しさに驚いた。
(ジャンヌの瓜二つ……いや、ジャンヌが子供の時であろうと此れ程美しかったかどうかは疑わしい。髪も眼もジャンヌにそっくりだが…何処かジャンヌとは違う。ジャンヌは何時までもまるで無邪気な子供のような女だというのにこの子は少し違う。其のせいだろうか?不思議なものだ。決して私に似ているわけでも無いのに)
娘の美貌ならば、世界的な名家、資産家と親類になることも十分に見込めると一目で確信を持てた。イレヱヌがエドワアドの愛を疑ってはいないものの、ジャンヌと同じくらい好く事が出来ないのは自分の父親のこういった顔を本能的に感じていたからだろう。只お陰でイレヱヌは亜米利加を離れる事が出来る。美しいものが日常では見付ける事が困難な、粗野な田舎者達の集まりの国からようやっと離れる事が出来た。おまけに此の学校は本人が希望すれば、自分の部屋にペットを連れて行くことも出来た。ルルと離れること無く野暮ったい野卑な亜米利加を離れる事が出来る。イレヱヌはエドワアドの提案に頷いた。「行きたい」イレヱヌはエドワアドの目を真っ直ぐ見てきっぱりと返事をした。父のこの決断に心から感謝した。
(ようやっと自分の居場所に巡り会えるかもしれない)一抹の期待と不安が胸の内で少しずつ膨らんでいくのを感じた。
そして、其処でイレヱヌはセシル・マグワイア、シリル・ベネディクトと会う事になる。
――序章 完――
イレヱヌは結局、恋愛も夢も、自分に出来ることさえも曖昧なまま歳を重ねていった。勉強だけは頑張り、先生に褒められる事も多くなる。手紙や電話でジャンヌ、エドワアドにも褒められた。其れは勿論嬉しい事なのだが其れだけだ。自分は勉強が出来るようになれば満足出来るわけではない。 いい加減先の見えない未來や終わりの無い勉強にも疲れはててデエトに誘われるまま気紛れに何度か行った。しかしやはり想像通りというべきか詰まらない、アンニュイな気分にさせるものだった。例え流行りの映画を観ても、ディナーをしても(此れなら独りで勉強をして過ごす方が良い)毎回結論はここに行き着く。そして相手に予習、復習を理由にデエトを早めに切り上げたいとやんわりと伝えると「イレヱヌは真面目だね」と笑われる。何故かその言葉は堪らなくイレヱヌの神経を障った。 イレヱヌをデエトに誘う相手は自分を実際より大きく見せようと見え透いた張りぼての虚勢を張りたがる脆弱なプライドの持ち主ばかりだった。大した実力も実績も無い人間には有りがちな事だ。しかしイレヱヌからすれば継ぎ接ぎだらけの虚栄の人間との会話は自慢話ばかりで空っぽな退屈極まりないものだった。 此れならセシルと小説や映画の事などで会話に花を咲かせる時間の方がよっぽど楽しい。そして相手は自分の事を好きな訳ではない。単にイレヱヌの姿だけ見て自分にとって都合の良い偶像を相手に妄想をしていただけに過ぎない。少しでも気持ちを楽しいものにしたいと“昼下がりの情事”のオードリィ・ヘップバアンを真似てジバンシィのバックに二つリボンの付いた白のノースリイブドレスに白のショートグロオブを着けたのだが、結局「何でこの人とのデエトだけのためにこんな格好したんだろう」と堪らなく後悔した。 (セシルに会いたい)その思いで頭が一杯になる。二人でお洒落をしてカフェに行き“キャンディ”や“醜い亜米利加人”について話したくて堪らなくなった。其の日のノオトにはデエトの服装、映画の内容を書いた。次いでに「あと一時間で世界が滅ぶとしたらもう一度同じ様に過ごす。永遠みたいに感じるから」と書くことも忘れなかった。女子寮の談話室で瑞西人のアンヌ・ベッソンと英吉利人のジュリエット・サンダースにその話をしたところ二人に大笑いされてしまった。 自分は特に夢というものを持つことも無く、シリルが言ったように特に好き
其の一件はどうやら目撃者が何人かいたらしい。同級生のアンヌ・ベッソン、ジュリエット・サンダースの様にセシルの味方をするものもいればヘンリイ、エドガアの様にシリルに同情するものもいたが、セシルは相変わらずの様子で朝は遅いため余りビュッフェでは見掛けない。同じ授業を受ける時にも居る時と居ない時があった。恐らく部屋で飲酒、喫煙をしているかボオイフレンド又はガアルフレンドと遊んでいるかだろう、とイレヱヌは推察した。イレヱヌは此の学校に来てから何度かデェトの誘いをされたことは有るものの、一度も受けた事は無い。全く知らない、興味も持てない相手と遊びに出掛けることなど楽しくない事くらい想像がついた。「ええっイレヱヌはまだボオイフレンドが出来たことないんだ?」ミルクシェイクを飲みながらセシルは目を丸くした。敷地内に併設された映画館で“昼下りの情事”を観た後にカフェで映画の感想やオウドリィ・ヘップバアンの美しさについて語った後に、恋愛観にも話が及んだ時そう答えたら驚かれた。「変?」とイレヱヌがクレエプシュゼットを小刀で切りながら首を傾げる。皿からはカラメルソオスと甜橙の薫りが立ち上る。「変では無いけど……でもデエトしたり恋愛するのって楽しいよ?ちょっと勿体無い気がする」とセシルは答えた。「イレヱヌは物凄く美人だし、勿体無いなとは思う。サン=ポウルの中では一番美人だよ」と言い、「尤も、僕は同率で1位だけど」と付け加えることも忘れなかった。イレヱヌはくすくす笑った。セシルのわざと道化を気取った自己陶酔な所はセシルのチャームポイントだとイレヱヌは気に入っていた。一頻り笑った後、「そう?一人で本を読んだり映画を観たりすることの方が楽しそうだけど」とイレヱヌが疑問を溢すと 「そんなこと無いよ。自分の事を可愛い、綺麗って言って甘やかして愛してくれる人が居るって素敵じゃない?」そう言うと恍惚とした表情で笑いかけてきた。なるほど、とイレヱヌは理解った。セシルは自分の事を持て囃してくれる相手が欲しいのだ。恋人という自分を受け入れてくれる存在からの愛を受け取ることにセシルは悦びを感じているのだろう。 (セシルは寂しいのかな)イレヱヌはセシルの父アンソニー・マグワイアの名前を何処で聞いたのか思い出した。不倫の|不祥事《スキャンダ
サン=ポウル学院は瑞西のローザンヌの近くに存在する学院だった。建物は左右対称で赤レンガに白い装飾のあるエドワーディアン様式の外観で敷地は一つの町ほどもある。敷地内には孔球場や庭球試合場、しまいには映画館まで存在することには驚いた。 サン=ポウルの日常は基本的に規則正しい生活其の物だった。朝七時に生徒達は一斉に起床し、ビュッフェ形式の朝食を摂る。授業は一般教科の国語や数学の他、芸術、運動教科にも力を入れている。イレヱヌは運動教科では乗馬が好きだった。元々動物は大好きだったし、賢くて穏やかな馬はとても魅力的な生き物だった。サン=ポウルは自然豊かな環境に建てられているため、馬に乗って瑞々しい自然を眺めながら野原を駆けて風を切るのは堪らなく気持ちが良かった。草と土の匂いを感じるとプラザホテルに住んでいた頃、時々セントラルパークでジャンヌとピクニックをした事を思い出した。亜米利加に居る間にパパに馬をおねだりしてみるべきだった、とイレヱヌは少し後悔をする。因みに乗馬は好きだが馬球は苦手だった。マレットは想像よりも重くて直ぐに腕が疲れてしまうし、馬を間違えて叩いてしまいそうで怖かった。 一番好きな授業は芸術だった。オウケストラ、デッサン、彫刻、絵画。そして此処では大好きなバレエや演劇も授業で習えた。イレヱヌは授業以外の休日でも許可さえ貰えたら踊りの練習をし続けた。黒鳥のバリエイションの練習に熱中していたのに、何故か亜米利加の小学校で投げつけられた嗤い声が頭の中に響き渡る。此方を嘲笑う真っ黒な眼。まるで檻に入れられた動物を視るような眼だ。 (あんた達なんか)鏡には王子を誘惑しようとする妖艶な黒鳥ではなく、眼差しだけで射殺そうとする悪魔の娘が映っていた。 (あたしは、あんた達なんかの手には届かないところまで行ってやる)黒鳥の三十二回のフーチエを回りながら何度も何度も心の中で言い続けた。自分は二度とあんな奴等に敗けない。頭の中で泥で汚れ、ぼろぼろにされた雑誌が思い浮かぶ。(あんな惨めな思いは二度としない。あんな奴等入り込めない居場所を自分で作るんだ) 午前中は六つの一般科目を学び、休憩中にホットショコラを飲んだ後午後からは運動若しくは芸術科目を学ぶ。授業の後は個々で勉強をし、21~23時には就寝する。此れが毎
「イレヱヌ様、朝ですよ」 最大の苦痛が今日も容赦無く襲いかかる。使用人のスーザンが今日もイレヱヌを起こしにやって来た。扉のノックをした後スーザンは無遠慮な足取りでのっしのっしと象の如く足音を立てながら部屋に入ってくる。イレヱヌにとっての苦痛の一つだ。イレヱヌを苛立たせて怒らせる為に態とやっている、イレヱヌはそう感じ取った。「さあさあ、早く仕度をしてくださいまし。朝は忙しいのですからね」 そういって寝台卓子の上に水の入った手洗、柘榴と檸檬、蜂蜜の入った薔薇水、猪毛で出来たブラシ等を並べていく。 鈍鈍とした動きで顔を水で濡らし、橄欖油の使われたマルセイユ石鹸で顔を洗うと、ジャガアド織りのタオルで顔を拭きサンタ・マリア・ノヴェッラの薔薇水とアルガン油で保湿をする。その次に、スーザンはブラシでイレヱヌの髪を解かしていった。総てが終わるとイレヱヌは血の気の無い大理石の様な顔に赤みがほんのりと差して薔薇色の頬になり、うねりのある髪は艶のある金糸になった。憂鬱な気分は朝食を食べる気力さえ奪っていく。鈍鈍と椅子に座ると肉匙で白トリュフのスクランブルエッグを掬った。牛酪の濃厚な薫りが鼻を擽る。其のまま唇に運ばず持て余す。 (食べたくない) 堪らない憂鬱がイレヱヌを襲った。ぐにゃり、と身体を柳の枝の如くしならせる。イレヱヌは学校という牢獄に行かなければならない。「イレヱヌ様、早く朝食を済ませてくださいまし。急がなければ遅刻をしてしまいますよ。」 スーザンのキンキンとした声がイレヱヌの鼓膜を刺してくる。食堂にはイレヱヌのみのため、当然ながら他の声は聞こえない。ジャンヌの「I」と柔らかく触れてくる甘い声は聞こえてこなかった。鈍鈍と喉の奥まで流し込むが好物のスクランブルエッグがまるで泥の様に感じた。食事は結局金糸雀が啄む程度口にして終わらせた。イレヱヌはジャンヌがエドワアドと結婚して新居に引っ越してからはずっと憂鬱を味わった。 何しろイレヱヌは亜米利加に住んでいながら亜米利加という国を蔑んでおり、メンタリティは完全に仏蘭西人其の物だった。亜米利加は欧羅巴人からす
イレヱヌは金髪を靡かせながら馬に乗って駈歩させる。左右の拍子が非対称の三拍子で走る動きをしているため、軽く息が切れてきた。髪に太陽の陽が当たると、まるで稲穂の様な輝きを放つ。瑞西の瑞々しい自然を眺めながら野原を駆けて風を切るのは堪らなく気持ちが良い。そうしていると悩みが総て風に乗って心の外へと流れ出ていくのを感じる。しかし、勿論此の瞬間は永遠には続かないことを知っている。何れだけ気に入ろうと此処は自分にとって終の棲家に出来る場所ではない。 ブロードウェイ・シアターで今日も母は豊かな金髪を耀かせながら舞台に立っている。「オクラホマ!」のヒロインローリーを演じている姿をイレヱヌは凝と見つめていた。 (ママンは今日も一番きれい) 誰よりも美しい母ジャンヌはイレヱヌにとっては何よりの自慢だった。 女優である母ジャンヌ・スチュワアト(公には旧姓ジャンヌ・ゴーテンと名乗り続けた)とイレヱヌは、プラザホテルのヴェルサイユ宮殿をモティーフにした部屋で無造作に置かれたドレス、宝石、毛皮、そして噎せ返りそうなほどの芳香を放つ花々に囲まれながら生活をしていた。 イレヱヌが祖国である仏蘭西の土を踏んだのは戦後漸く経ってからだ。ジャンヌという女は自分の不利益になることへの嗅覚は優れていた。仏蘭西が第二次世界大戦に参戦することが決定されるや否や状国の未來は当分は見通しが暗いと見なし何の未練もなく祖国を後にしてしまった。プラザホテルで生活をする理由は身の回りの世話は昔から使用人や恋人に任せきりだったため、生活能力が無いことという自覚をしているからだ。私生活を守りたいという至極尤もな理由などその一つに過ぎない。イレヱヌが産まれる前も、産まれた後にも誰にも教えることなく一人で育てると決めたのもそのような明らかに必要なものが欠けているからこその決断だったのだろう。 「I」と微笑いかけられて抱き締められると何時もオォ・デュ・コロンと母の皮膚の匂いが交じった甘い馨りに恍惚した。 ジャンヌはイレヱヌを時々Iと呼んだ。 イレヱヌの碧眼は耀の加減によって紫色にも藍色にも見えること。極東では藍色は“ai”と呼ばれること。そして の